歴史・由緒

⼤稲荷神社の由来と歴史

⼤稲荷神社の由来と歴史

 

宝永3年にこの地に祭る稲荷の神の御信託により、時の藩主忠増公が⼩⽥原城の⻤⾨除の稲荷として再興されてから、およそ3百念の歴史がある⼤稲荷神社を含め、計4つの御社がございます。

それぞれの御社の由来と歴史をご説明いたします。

⼤稲荷神社

⼤稲荷神社

 

⼤稲荷神社の由来伝記によれば、⼩⽥原城北条時代に修験者が旧⽵ノ花地区内に修験堂を建⽴したと云われています。

武⽥家の⾂曲淵⽒が主家滅亡後徳川家に随⾝この地を采地として賜り、修験堂に稲荷⼤明神をおまつりしたことに始まり、その後天正⼗⼋年(⻄暦⼀五九〇年)初代⼤久保忠世公⼩⽥原城主となり、京都伏⾒稲荷⼤社の最北座⽥中⼤神を合祀し信仰ことに篤かったが、⼦忠隣公の時に幕府の忌諱に触れ改易となり、それ以来永年に亙り祭祀するものも無く荒廃にまかせたようです。

貞亭三年(⻄暦⼀六⼋六年)忠朝公⼩⽥原に帰藩が許され、その⼦忠増公の時に家⾂清⽔⽒の妹並びに側近内芝⽒に御神託あり、その御告げに従い⼩⽥原城の⻤⾨除稲荷として再興したため、忠増公には⽼中執政職に昇進その御神徳の崇⾼広⼤にしてそのあらたかさに恐懼感激し、宝永三年五⽉(⻄暦⼀七〇六年)現在地の⾕津⼭に御社殿を造営せられたものでございます。

※宝永⼋年(⻄暦⼀七⼀⼀年)四⽉ 正⼀位神位宣命、正⼀位⼤稲荷⼤明神と奉称
※同 ⼋年五⽉ 忠増公は社領七⼗⽯寄進
※明治の御代には常宮昌⼦内親王(明治天皇第六皇⼥)・周宮房⼦内親王(明治天皇第七皇⼥)の両殿下が御⽤邸御滞在の折にしばしば正式・略式の御参拝をせられ、社前の左右に夫々松樹をお⼿植えせられました。
※元宮の神紋は⾏者輪宝で当地⽅唯⼀の春⽇造で屋根は桧⽪葺です。その覆屋根は昭和六⼗⼆年に銅板葺にしました。

 

錦織神社

錦織神社

 

「新編相模国⾵⼟記」によれば錦織明神社、古験者⽕定せしを祀り⻄郡明神と唱う。慶安年中、領主の命により、今の字に改めしと云う。例祭⼗⼀⽉⼗七⽇、神体は修験者の形なり。町内持。とあり、もとは須藤町の「かどや」の隣にあったものを⼤正三年に境内に遷座しました。

寛永⼗年(⻄暦⼀六三三年)正⽉⼆⼗⼀⽇の⼤地震により⼩⽥原城は⼤破、領内の⾜柄上下は特に被害甚⼤でございました。⼩⽥原藩主稲葉美濃守は領内の復興のため過酷なる年貢を取り⽴てました。

農⺠は塗炭の苦しみに喘ぎ暴動を起こしかねない状態でございました。この時に上郡関本村名主下⽥隼⼈は⼀家の全滅を覚悟の上で年貢の軽減を藩主に直訴をし、万治三年(⻄暦⼀六六〇年)⼀⼆⽉⼆⼗三⽇処刑されたが隼⼈の⼀念は⾒事に達成されました。

⽣前隼⼈は城下に出向いた時には須藤町の郷宿を定宿としていたため、須藤町の⼈々と⾃然親密な関係でございました。そこで町内の⼈々は共に⻄郡の為に⾝を投じた隼⼈の義侠を徳として、⽐の社に秘に併せ祀ってきたものでございます。

御祭神 錦織⼤神
下⽥隼⼈命
例祭 ⼗⼀⽉⼗七⽇

愛宕神社

愛宕神社

 

「新編相模国⾵⼟記」によれば、旧⾕津村の守護神と云われております。

天平宝字年間(⻄暦七五七年)、夢中道⼈の創建で愛宕⼭(⼩⽥原駅⻄⼝にある⼭)の⼭上にございました。本地勝軍地蔵は夢中道⼈の⾃作と云われております。

元暦中、蓮上院の僧堅雅再建。暦応⼆年(⻄暦⼀三三九年)⾜利尊⽒建⽴。現在の社殿は本殿のみが⼤正末期遷座されておりますが、江⼾に幕府が開かれた時に、拝・幣殿を江⼾の愛宕⼭に移築してしまい、本殿のみが残されたものであると伝えられております。
御⼿洗⽯には講中江⼾⾚坂⽥町五丁⽬と刻まれております。

御祭神 ⽕乃迦具⼟神
例祭 三⽉⼗九⽇